- Home
- 神田雑学大学
神田雑学大学
神田雑学大学講演 どんぐりクラブ代表
須藤栄一郎
はじめに
それまでは、南洋諸島で使われていた縄文模様(これも何故か縄文模様)の土器が発見され、それが7000年前のものとされていました。
日本に伝わったのが、4000年前という説もあります。日本で土器が使われだしたのは約13,000年前とされていますが、このような底が尖った逆円錐形の土器です。
では、当時の人々は、土器をどのように使っていたか。
土器とドングリの関わり
尖った部分を土中に埋め、器の周りに薪をまわして、火を燃やす。土器の最上部は直径30cmほどの円形になっているから食物を差した木の枝などを渡して、焼いたり蒸したりして食用にした。
器の中央部は、食物の煮炊きに用いたほか、餅や煎餅などを貼り付けて焼いた。底の尖った部分は、食物の貯蔵や加工保存に活用したに違いない。土器に付着した微かな糟から、ドングリの粉が発見されました。
日本のドングリは、17種類ありますが、当時からあるドングリはほとんど渋い。渋さをどのようにして抜いたかは解っていないが、想像するに、土の中に埋めて発酵させて抜かしたか、川の水に漬けて、渋を取ったかのふた通りの方法がある。
しかし、もともと渋くないドングリもあった。これが皆さんに試食戴いているビスケット、「マテバシイ」のドングリの粉を使って作ったものです。
「マテバシイ」は、待っていると椎の実になるのではないかというドングリの実です。
「マテバシイ」の実は渋みが0,5%しかなく、甘味がある。現在のところ、茨城県から南の海岸伝えに植わっています。ドングリの背比べという言葉がありますが、「マテバシイ」から来ているらしい。というのは、その実は、底は平で座りがよく、ほどよく丸みを持ちながら先端が細くなり、鉄砲の弾の形状です。
最近、「マテバシイ」が多くなったのは東京都です。この木の枝は、年間で約70cmほど伸びる。植木屋さんにとっては植えやすい樹木です。毎年剪定しなければならない。すなわち、自然に仕事がくる・・・・?という風に思われるくらい多い。
江戸時代には、この木を「のりしび」と言った。の海に枝を挿しておくと、海苔が付く。その海苔を採って空き地に干す。その空き地は「ヒビヤ」と言われます。すなわち、現在の日比谷公園のことと言われています。
韓国ではドングリをトトリといいます。日本の鳥取県は、ドングリから名前がつけられたのでしょう。
本日のゲストの奥山さんと、鳥取県まで行きました。ホントかなと思っていましたら、鳥取県ではドングリで村おこしをしていました。その村の人も、ドングリをトトリと言っていました。
今日は、どんぐりも持ってきました。
堅いですからこのまま齧ると、歯を傷める恐れがあります。
これは「マテバシイ」の実です。
ドングリ主食時代
わが国では、弥生式文化が始まる12.000年前から縄文時代の10,000年間ほど、ドングリを食べていたと思われます。もちろん、これだけではなく、貝も魚も海草も、小動物も食べています。この間、特徴的なことは、戦乱が無かったことです。
それは発掘品に武器がないことから解ります。
弥生時代が始まって200年後食料(米など)の栽培と貯蔵が出来るようになって、それの奪い合いが生じたから、戦いが始まったといわれています。
縄文時代の墓は、(7歳くらいまでの)子供の墓と大人の墓は、はっきり分かれています。 縄文時代は、やはり子供の育て方が難しかったと思われています。成人しなかった子どもは「神の子」といわれて、死んだ子の亡骸は、土の棺に入れて家の入り口辺りに埋葬したようです。元気な大人が、早く生き返って欲しいと願いながら、その上から踏み固めたという。それが、死んだ子供たちへの葬送の儀式でした。大人の死んだ人は、墓地に埋葬しました。
どんぐり食の企業化
多摩市に住んでいたときに、知り合いの市長の鈴木邦彦さんから多摩の名物を創ってくれといわれまして、試作したのがドングリのクッキーです。 ドングリクッキーは、京王線高尾山山頂の売店と高尾の森ワクワクビレッジの売店、サンピア多摩の売店で売られています。
高尾の森ワクワクビレッジの売店では第1位、サンピア多摩の売店の商品が2~300種あるなかで、第3位です。高尾山では何位か解りませんが、よく売れています。サブレのような味わいで、結構美味しいという評価を頂戴しています。